安来・毘売塚古墳

安来・毘売塚古墳

毘売塚古墳 島根県指定史跡


中海を望む丘陵の突端に、5世紀代(400年代)に築かれた全長約42mの前方後円墳。階段が途中で急になっている部分が、古墳の裾にあたります。斜面には葺石がみられ、墳丘からは円筒埴輪が出土しています。古墳頂部から安来市荒島産の凝灰岩で作られた舟形石棺が発見され、中には鉄剣と人骨が残っていました。石棺は現在埋め戻され、その上には石碑が立っています。石棺の外からは、鉄剣・鉄矛・鉄鏃・短甲・漁具(ヤス)などが出土しています。

(案内看板より)

毘売崎伝承


奈良時代(733年)に編纂された『出雲国風土記』の意宇郡安来郷の条に記されている伝承です。その伝承によると、『天武天皇の時代(674年)の7月13日のこと。安来郷の北の海岸に毘売崎という所があり、そこを語臣の猪麻呂の娘が散歩していると、和鰐(サメ)の来襲に逢い、咬みつかれて死んでしまった。父の猪麻呂は殺された娘を浜のほとりに葬ったが、悲しみと怒りで昼も夜も悩み苦しみ続け、その場を離れようとしなかった。数日経ち、矢先を研ぎ、鉾先を鋭くして、これを持ち、海岸のしかるべき場所に座り、天や地にいる無数の神をはじめ、出雲の三百九十九の社、さらに海の神などありとあらゆる神に祈りを捧げ、和鰐を殺させてくれるようにと願った。そうしたところ、百匹あまりの和鰐が一匹の和鰐を囲むようにして姿を現した。猪麻呂は持っていた鉾を振り上げ、囲まれている中央の和鰐を刺殺して捕まえた。それが終わると、和鰐は囲みを解いて立ち去った。猪麻呂がその和鰐を切り裂くと、娘の脚の脛の部分が出てきた。この和鰐が娘を殺した和鰐であることを知った猪麻呂は、この和鰐をさらに切り裂き、串刺しにして、道のかたわらにさらした。』と記されています。この和鰐に殺された娘の霊を慰める慰霊祭が起源と伝えられるお祭りが、安来の夏を彩る『月ノ輪神事』です。また、地元では、この丘の上に築かれている毘売塚古墳をこの娘の墓と伝えています。

(案内看板より)

上田正昭氏は『新修 日本の神話を考える』の中で、この毘売崎伝承を語部の実相として述べている。

「語部は神話のみを語り伝えたのではなかった。歌謡や物語などの口誦詞章もうけついだし、民間説話のたぐいも伝承した。語部は神まつりの場でも「奏」したが、ケの場でも語りついだ。そのことは、たとえば『出雲国風土記』に物語る語臣猪麻呂の娘と和尓(わにざめ)をめぐる伝承をみても明らかである。すなわち意宇郡毘売崎の地名起源説話として、語臣猪麻呂の娘が和尓にかみ殺されたのを嘆き悲しんだ猪麻呂が、鉾で和尓を刺し、和尓の腹をさいて娘の脛をとりだす説話がそれである。和尓を串刺しにして、路のほとりに立てたという。この伝えの文末には、語臣猪麻呂は「安来の郷人、語臣与の父なり」という注記があり、「その時から、今日に至るまでに六十年を経過した」と述べる。語臣猪麻呂の娘と和尓との説話は、天武天皇三年(六七四)のできごととし、実在の人、つまり安来郷の語臣与の父を媒体としての物語となっている。内容は、神話というよりはむしろ伝説的要素が濃厚であり、出雲国安来郷の語臣らの、むかしがたりとして伝承されていたことがわかる。語部と古代の口頭伝承は、密接なかかわりをもったが、語部が神話のみを語り伝えたとするような単純な見方は成り立たない。それはこの語臣猪麻呂の伝承ひとつからもわかる。」

上田正昭『新修 日本の神話を考える』小学館 2003

● 所在地


島根県安来市黒井田町504

● 関連書籍


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